2018年6月7日木曜日

“分からなさ”を生きる

という漢字の成り立ちは、長さのある棒を刀で切り分けた様子だそうだ。

分ける、分かる
目の前にある理解しがたいものを、切り分けていくことでそれが何であるのか知ることができる。



訳の分からないものへの恐怖心も、分かることでその恐怖心は収まる。

心霊現象はその原因がわかれば全く怖くないし、挙動不審な街のおじさんだって心理学でその行動の理由もわかったりする。訳の分からないアート作品だって解説がつくと安心して見られる。
分かることで恐怖心を克服でき、さらには心を通わせることだってできる気がする。


分からないということは、ちょっと恥ずかしいことだと思う。
自分の見識の狭さや不勉強さが嫌になる。
分からないことに上手に向き合わないようにしたりもする。


そうやって避けてきた英語もそうだ。

最近やっと重い腰を上げて英会話をやるようにしている。
私にとって漠然とした意味のない音の塊だった英会話が、徐々に単語が分かれて聞こえ意味を追えるくらいにはなってきた。
街に溢れる外国人旅行者の人の会話を盗み聞くくらいには興味が持てるようになった。


だけど、喋る方となると
言いたいことはあっても出てこない単語に本当にイライラする。
伝えたい出来事や自分の情報もたくさんあるのに、それが言葉にならない。
スカイプのオンライン学習なので伝家の宝刀・身振り手振りができなくて本当に焦る。

とりあえずしのごの言わずに単語を覚えれば解決するんだろうけれど。


チューターからよく訊かれる質問は「なぜ英会話の勉強をするの?」
「旅行先で現地の人と話がしたいから」と答える。

ただ見たことのない風景に身を投げるだけの旅行から、もっとその土地の人になってその環境を分かりたいと思う。なんだったらその場所で生活したい。





いろんなことを分かるようになりたいと思って勉強する一方、
分かることが必ずしも是ではないかもしれないなと思うこともある。

この矛盾がうまく言い表せないのだけれど。




ハル・ハートリー監督の『トラスト・ミー』という映画を観た。

ハル・ハートリーはNYのインディペンデントムービーの権化だった人だそうで、UPLINKで特別上映をしていた。1990年の作品。

妊娠がわかってすぐに父親が心臓病で突然死しそれを母親に攻められる女子高生と、屁理屈で仕事が全く続けられないものの父親の支配から逃れられずにいる青年が出会う作品。

妊娠、彼氏の裏切り、家出、父親の死、強姦未遂、幼児連れ去り、失業、虐待、暴力、求婚、罠、堕胎、立て籠り・・・
これでもかってくらい人生の荒波に揉まれている話で、イベントが多すぎて余韻や意味に浸る意味もない。あえて浸る間を作らなせないようにしているんだろう。



意図しない追い詰められた状況の中でちょっとしたきっかけ、それは周囲の人のほんの一言だったりわずかな感情の揺れだったり、その中で少しだけ舵を切っていく。

彼らが出来事の価値を考えたり意味を理解する様子は一切描かれず、身体ひとつで感じて乗り越えていく感じにとても好感が持てた。

30年近く前の作品なのに、この分からなさとの向き合い方に心から共感したし、新鮮なワクワクがあった。
10年くらい前の自分が見ていたら、どう思っただろう?




どうしたっても分からないことは、分からないままで受け取ることも必要かと思うこともある。
分かろうとして自分の持っている刃こぼれした刀で下手に切り刻んで、却って物事の厚みが薄れていく。
もっと漠然としている方が豊かだ。


それと、分からないで済んでしまっていることも案外多い。

こんなに近くにある自分の身体だって、「これはなんでこうなの?」と思って調べると「なぜそうなるのかは解明されていません」という答えにたどり着くことが多すぎる。

まぁそのためには、まずは分かることをとことん突き詰めなければならないんだろうけれども。

意外と分からないことだらけ。
でもなんとかなっている。なってないのかもしれない。それも分からない。
それが面白いのかもなと思う。




植島啓司さんと伊藤俊治さんの対談本『共感のレッスン-超情報化社会を生きる』という本を読んだ。
とても面白い一節があったので抜粋して紹介したい。


植島 『錯乱』というのは、人が理解できないことが錯乱なのであって。もしかすると、錯乱とは生命体にとって、もっと高次な段階で働いている機能なのかもしれない。それをたまたま論理的、合理的に理解できないから、錯乱としてしか見ることができないということだと思うんですけどね。これは恐らく遺伝子レベルでもそういう働きがあって、決してある一方向には動いていないということによって、何て言うのかな、動きが多様化して、生命体が一斉に滅びたりすることがないようにしている。そういうふうに理解できると思うんですけれど。
伊藤 生命の本能的なふるまいに近いものを感じますね。トランスを周期的に繰り返すことで、特別な精神の創造性のプログラムを伝え続けようとしたというふうにも考えられる。儀礼の継承というのも、共同体のDNAの保存システムとも見なされうるのではないでしょうか。
植島 ええ、そうですね。
伊藤 それと、理解できないものに向き合うには、自分が理解できないものになるしかない。トランスにはそうした要素があります。環境というものが偶然性に満ちたものなので、人間の身体性を無意識のうちに対応させる。何が起こるか分からないので、意識的に脳を使うと、多分できない。
植島 遅くなるし、うまくいかない。
伊藤 考えていたら終わってしまう。ランダムさがとても重要で、遺伝子とか免疫系というのも、結局何が来るか分からないところに対応するということですよね。

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