2012年8月30日木曜日

(続)「原初的な運動」ーひとつの"身体"

劇場という場所に限った事では無いのですが、何らかのパフォーマンス(表明)を行う人とそれを見る人がいるとき、そこに集った人々の間で何が起こっているのか、という疑問があります。

以前に私は、「身体はメディアだ」と漠然と思っていました。それを敢えて説明するのなら、心と心を媒介するものがパフォーマーの身体というとても単純な構図であり、また受信側の身体についてはほぼ無視して考えていました。全く浅はかです。
最近思うのは、二つの身体がそこにあるときに、共有されているひとつの"身体"において感覚されるものも重要なのかもしれない、ということです。これもまた、未だ漠然とした考えですが…。
それは「伝わる」というような物理的な時間や距離で語られるものではなく、同時に交感しあうもの。
知覚はもちろん重要なのだけれど、むしろ共有されている"身体"においては「感覚」が重要なのかな、と思います。

(タイムアップ。つづく)

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何かもやもやとした考えがあるとき、
それを分かることが、自らの中に明瞭に答え(決着)を導き出すことが全てではないと思うようになりました。しかしそれは何かを諦めたわけでは全くありません。
"理解"して(理解したつもりになって)しまうことはある意味自らの立場を限定し思考を偏らせることになりかねません。というのは、ある立場に居することで思考したり発言したりすることはとても容易になるからです。
かといって沢山の意見を平等に取り扱おうとすると、自分の意見すら発言する意味を見失います。
むしろ、沢山の意見を参考にして深く深くどこまでも思考して、それでももやもやとしたところに可能性を見出すことが出来るなら、それが最も良い状態だと思います。
複雑なものは複雑なまま受け入れればいいと教えられました。その中から僅かに何かを掴み取ろうとする力が言葉に特別なものを与えるのだと思ったりします。
ここに書くことは何かを表明するというより、ここに書いたその後を思考するための足場になればいいと思っています。なにか書くことは既に在る思考がそうさせるのですから。
ほんの数限られた記号である文字も、当たり前ですが使う人によって、言葉の力は貧しくもなり、無限大に広がりもします。
畏怖の念と謙虚さを常に持って、だから何も書けないんじゃなくて、だからこそ何か書く。

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