2012年8月27日月曜日

「儀式」

さて。
今日は論文をぽちぽち打っているのですが、全く筆が進みませんわ。
ぐるぐる毛糸が絡まって、どこに先っぽがあるのかわからなくなってしまいましたわ。




最近、現実で起こることが劇場で行われていることを超えてしまった、というような嘆きにも似た言葉をしばしば耳にします。たくさんの人が、そういうことを言っています。
そんなことはないぜ!と粋がるつもりも、否定するつもりも毛頭ないですし、むしろまさにその通りだと思っています。思っていますが、その言葉とは裏腹に、やっぱりひと時の現実を忘れさせるドラマにすがっている様子を見ると、ちょっとがっかりします。

それでもやっぱり、現実を超える劇場での体験を与えてくれる作品があるのは確かです。
私は批評家ではないので、どの作品がどう、ということをここで言うつもりはそんなにありませんが、そういう作品はあります。どの作品がどう、ということを明言できないのは、どの舞台の作品もそうなる可能性があるということでもあります。無理やりそういう視点で引き出せるものもあります。しかし偶然にして意とせずその効果を利用するのではなく、それをきちんと踏まえているかどうか、またそのような意図をあいまいにせずきちんと追求できているかどうかで作品の質はがらりと変わってしまいます。現時点でそのような意図を見据えている作品は、特に日本ではものすごく数が少ないように感じます。
舞台の作品であるべき作品、ほかの何にも置き換わることのない作品です。観客として観ているというのでは足りない、客席から舞台へ引きずりだされる、という言葉でも足りない、観終わった後に自分がどことなく変わっている、作品が始まって終わるときには劇場全体で明らかになにかが変わっているという作品。
それらの作品について、論じてみたいことがあります(もしかしたら、やっぱり論じるためににはそれらの作品を引き合いに出したほうがいいのかもしれませんが)。


私に大きな刺激を与えてくれたいくつかの作品を貫く特徴がいくつかあります。

それらは、「意味」を与えてくれるのではなく、私が観客であることを忘れさせ、身体に直接作用する何かを与えてくれる作品。
その様子を言葉にするのなら、その特徴は「儀式的である」と言えます。

その特徴を支えるキーワードが二つあります。
一つは、「観客の不在」。もう一つが「原初的な運動」。

「観客の不在」とは、劇場にそれまでの「観客」というものがもはや居ない、ということです。

儀式にはもともと、観客がいません。
儀式とは、その場にいる全員が祈る、または何かの目的に身を投じることであって、それを観察する人、という立場はありません。

先にも書いたように、もはや現実で起こる悲劇や喜劇は劇場で上演されるドラマをゆうに超えてしまいました
私たちは常に世界の情報を手に入れることができ、世界中で起きているより華やかでより悲惨なドラマを遠く離れた場所でスクリーンを通して知ることができます。画面の前という絶対に安全な観客席を私たちは確保しました。

すると、一つの場所に同時に居合わせるという劇場の機能は特別な意味を持つようになりました。劇場の客席は、もはや安全な場所ではなくなりました。大袈裟な言い方かもしれませんが、劇場に集う人たちはそのとき、運命を共にしているともいえます(その効果を絶大に示しているわかりやすい例は、震災後に流れるようになった、「大きな揺れがあった際は係りの~」という上演前の放送のような気がします)。そのような、同じとき同じ場所に集うという切実さは、劇場という場所に新たな価値を付与したように感じます。
現実を忘れさせるドラマを望む観客もいることは知っています、ただ、ドラマ以上の、劇場における現実を観客はパフォーマーとともに過ごすのです。

そのようなことをきちんと意図した作品は、もはやそれまでの舞台の作品とは一線を画すものになっています。
そのような作品を実際に体験して思うことは、少なくとも、「劇場に行かなきゃならない」と思わせるものです。
儀式に参加するためには、実際に自らがそこにいなくてはなりません。


「原初的な運動」
最近舞台の作品でよく見かける身体表現の様々が、原初的(origin)な方へ回帰しているように感じます。
その特徴を原初や回帰という言葉で語ってしまうのは誤解を生むかもしれません。どちらかというと、そう捉えられる表現方法によって観客に与えようとしているものが重要です。原初的、つまり身体の根源的な動きは、身体の記憶に直接に訴えかけるものである、ということです。

その傾向は、特にダンスにおいて顕著である気がします。
長い時間をかけて研ぎ澄まされてきたダンスの形、というものを脱し、しかし脱するというのではなく、その前段階の身体による、もっと、身体の動きそのものを見せるもの。
もはやダンサーの身体は観客にとっての憧れではなく、観客と「身体」を共有している、そのことが、ダンスの動きをそれまでのダンスとは異なるものにしています。

この段階で、原初的な動きを「儀式的」という言葉の中に含んでしまうのはいささか暴力的であることは承知しています。
ただ、劇場に集った人々が共有している何か、そこに身体的な要素は必ず潜んでいます。

(つづく)



書いていると思うけれど、これを論じるためには全然力量も時間も足りない。
自分の範疇にあることを言葉にしたって、面白くもなんともない。頭全部組み替えたい。少なくとも自分くらい超えられないでどうするんだ、と思う。
ただ漠然と、私は舞台が好きだということ、なぜかそれだけは痛感する。
動力がほんとうにそれだけだからだ。

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