2012年9月10日月曜日

身体とイメージ ー或る2つのイメージについて

2つのイメージの捉え方の違いについて書き出してみます。これはあくまでも、身体を使って動く人間としての考えです。まだまだ言葉足らずですが…

2つのイメージについて。
ひとつは、結果としてのイメージです。外側にあるもので、例えまさに動いているものであっても、静的で、ポージングのようなものです。見せかけ、とまで言うと言い過ぎでしょうか、もしくは、私たちが見ることのできるイメージです。
もうひとつは、原因としてのイメージです。内側にあるもので、動的かつ流動的なものです。もしかしたらこれは、私たちは見ることのできないイメージかもしれません。言葉にも置き換わらない、とてもあやふやな何かです。いや、もしかしたら、見ることもできるかもしれませんが…

例えば、爆発というものを身体で表現するとします。そのとき、爆発というイメージを、飛散するものや爆発の形の模倣として動く身体の動きが考えられます。その動きを簡単に例えるなら、両手足を開いてジャンプ、のようなものだったりします。
一方、身体の内において、爆発というもののエネルギーを産み出すというイメージのとらえ方もあります。それも突き詰めれば何らかのイメージの模倣であると言えるのかもしれませんが、そのイメージの模倣を全て剥いでゆくと現れるもの、もっと別の言葉でいうのならば、その爆発を生きる・体験するために、体の内において産み出す爆発というエネルギーのイメージ、というものがあります。この結果は必ずしも、両手足を開いてジャンプ、という形になるとは限りません。
しかし、ダンスをはじめ、パフォーマンスの技術のひとつとして、今挙げた異なるイメージの在り方を同時にひとつの身体の動きにおいて実現する、というものがあるかもしれません。
また、両手足を開いてジャンプ、という動きは手足を身体の中心から外に向かって押し出します、その動きにまるで爆発のようなエネルギーの流れを見出すこともできるでしょう。実際に折り畳んだ手足を勢いよく広げる動きがそこにあります。

先に結果と原因という言葉を用いましたが、その使い方はふさわしくないかもしれません。それらは同時にそこに在り得るものであり、どちらかが必ず先行するものでもありません。結果のイメージから導き出される原因のイメージというものもあり、またどちらも「動機」にはなり得るのです。

ダンサーは芝居ができるのはなぜ?と頭を捻っていた人の言葉を思い出します。身体の内に動機のイメージを明確に打ち立てることができるダンサーであれば、ある程度の芝居ができるのは当然であると思います。そこに演劇独特の、物語を明確に示す技術や言葉を話すための技術はありません、しかし身体の内にエネルギーを産み出し、そのエネルギーを生きることができるのですから、ともすると人間を生きることも可能であるのです。

(つづく)






池田扶美代×ティム・エッチェルス『in pieces』を観ました。

言葉を話すシーンが多く、池田さんの表情がとても印象的でした。なんだかとりあえず踊るのが楽しそうで、観ていて嬉しくなりました。
ただ、どれだけ言葉を使おうと、表情にその感情を見出そうと、あれは紛れもなく身体による表現、ダンス作品でした。75分、ずっと舞台上に一人で立ち、危うい綱渡りなシーンもあったけれど、ついにロープを離さなかった彼女の信念の強さ。踊るように喋り、喋るように踊り、舞台上を自由奔放に移動し、彼女の中でどんどん湧き出てくるエネルギーが迷いなく身体の動きとして現れてくる様は、圧巻でした。
そしてなぜか、私の肩の荷がどっと下りた気がしたのです。

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