2012年9月10日月曜日

身体とイメージ ー(続)或る2つのイメージについて

足が蚊に刺された。刺された部分は赤くぷっくりと腫れ上がると同時に、私に「蚊に刺されたんじゃない?痒いよー」という信号を送る。刺されたところを掻きたい、刺された場所はすでに分かっている、そこに手を伸ばそうとする。しかし痒くても動くことの出来ない状況にあったら、「痒い痒い」と思いながら痒いのを我慢することになる。やっとの思いでそこを掻きむしっていると、周りの人から、「蚊に刺されたの?」聞かれる。
足を掻く動きをすると、「この人は蚊に刺されて痒い」ということがそれを目撃した人たちとの間で共有される。
また、足を掻くために動くというより、痒いから手を伸ばす。だから刺された場所に伸ばす手の動きはスマートで迷いがありません。そのスマートさは、それを目撃した人に明確な情報を伝えるかもしれません。

このとき、「痒い」ということはイメージと言えるでしょうか。しかし、「痒さ・痒み」はある種のイメージであると言えるように思います。
他人の身体における「痒さ・痒み」というものは、それがどのようなものであるか、共通の感覚として私の身体においても想像することが出来ます。私は「痒さ・痒み」を私の身体において思い出すことが出来ます。しかし、「痒い」というものは、他人自身の身体において他人が感じるものであり、どれくらいのどのような痒さなのか、ということを正確に私は知ることや体験することが出来ません。
お医者さんの問診に、事態は似ているようです。


身体がどうして動くのか、ということは、その目的や意志のようなものをどれだけ剥いでいってもやはり、曖昧で漠然としたものでしかありません。むしろ私の意にそぐわずとも勝手に、身体は始めから動いています。そして絶えず何もかもが動いています。動いているというより、変化しています。生き物は、変わってゆく環境に適応するため、また環境を変えるために動きます。
水が枯渇したから他の水辺へ移動することや食べ物を探すこと、気温の上昇や下降に合わせて毛穴が開いたり閉じたり瞼が絶えず瞬きをしたりすることも、なにもかも、
私の意としない意志がそこにはちゃんとあって、そのことに私は感心するか楽しむほか為す術がありません。


意志、目的、動機、原因、機能、信号、
それらとイメージの関わりについて。

0 件のコメント:

コメントを投稿