2012年6月28日木曜日

ダンスをさがす

稽古場で、鏡の前にずっと立っている。

身体のどこから動き始めるか、を考えたとき、しばらくしてその疑問が無意味であることに気づく。
身体はずっと動いているし、動き始める前に止まっているということもない、むしろ、止まっている、という状態を維持しているのだし、突っ立っていたって、微妙に揺れている重心や息をしていること、何にも“止まっている”ものはない。

さて何をどう動かせばいいのか考えて、鏡に映る自分に話してみる。
どこからか声が聞こえる、そのとき喉が震えている。

ただ立っていて、腕を持ち上げようとする。
今腕は肩の関節から外れることなく、肩からぶら下がっている状態。
腕を持ち上げてみようか。
どうして腕を持ち上げるのか。
別に理由なんてないけれど。

顔が痒い、手はその痒い部分に触れようとして動く。
ずっと腕を下ろしていて血が下がってしまったから、手を上げる。
何かを掴もうとして腕を上げる…例えば蚊が飛んでいる。


身体はヒトが生きるために、ほんとうにいろいろな機能を背負っていて、
生活するために、コミュニケーションを取るために、身体は実によく働く。それらの動きを排除してダンスを考えることは出来ない。

ダンスは身体の動きであって、身体の動きは絶え間なくいつも続いていて、その中にダンスもある。
何がダンスで何がダンスじゃないのか、を分けるのは大変難しい。
だけど踊ることは、それら生活の"ため"の身体の動きから最も離れた所に在るんだろう、あってほしい。
簡単な言葉で言えば、最も意味や意義から離れていて、つまりそれを無意味と言ってもいいが、
それよりも間違いなく、そこに在るもの、それ以上でもそれ以下でもない。
身体はまさに身体として、その運動もまさに運動として純粋なもの、
つまり不可分なく自然として、身体とその身体の動きが、在るがままに。
その様子を言葉に置き換えたら「美しさ」?、というのは余りにも安易だけど、何か人を感動させるものになるんだろうかと思ったりする。

そういう風に身体を扱えたらいいなぁ、と思う。

例えどんな振付や決まりごとがあったとしても、それ以前に身体がどう在ってどう動くかを見て感じている。
私はそういう風にダンスを見ている気がするし、それだけで十分だと思う。
意味や機能の解釈に身体が囚われて抜け出せないのは身体の、人間としての甘えだと思う。


面倒なことを色々考えすぎる、
だけど考えれば考える程答えは単純。

人間としての価値に興味が薄れてゆく程、自分の身体としての価値をどれだけ見出せるか考えてみたりする。



なんか未熟で刺々しい言葉しか繋げないのだけど、稽古しながらぼんやりと考えていたことを書いてみた。

理想はどんどん高くなって、だけど何が正解なのかも分からないけど、
とりあえずまだまだだなぁ、と思うことは確か。



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