2012年7月4日水曜日

身体(所有について、知覚/感覚)

友達にここ読んでみて、と言われて読んでみた。

『差異と隔たり 他なるものへの倫理』(熊野純彦著、岩波書店)の
第一部 所有と非所有との〈あわい〉で→第二章 身体と所有—はたらく身体と痛む身体のあいだで—

「身体を所有すること」について書かれている。ちなみに前後は読んでない。むしろ読まなくていいと言われたし、読む必要はないだろう。
身体を所有することってできるの?所有するってどういうこと?私の身体ってどこからどこまでが私のもの?みたいな。

読んだ感想を端的に言うならば、この人ぶれ過ぎ。に感じる、私は。
脆い。まさに机上。の空論、とまでは言わないが。
(多分とても部屋がきれいな人だと思うけど、結婚はしてないと思う。と思って画像調べたら結構いかついぞ…ピュアボーイだと思ったのに…)
まぁ倫理学専門の人らしいから、そう感じるのかな。


熊野氏曰く、「人間は道具を所有している。日常的にもごく自然にそう語られることができる。おなじように、道具であるかぎりでの身体もまた、他者との互換的な〈所有〉の対象とかんじられることもありうることだろう。」(31頁)

ただ、彼自身もそう簡単に言い切れるとは思っていないらしく、

「〈身体〉が〈道具〉となるかたちには、部位により、また問題となるケースにおうじて、濃淡がさまざまになっているということである。…(中略)…いまひとつには、「道具」である身体もまた、道具であることによって私から端的に隔たり—私による所有を可能にするような距離—を獲得するのではないということである。」(35-36頁)
「〈私の身体〉と〈私〉の関係はここでも奇妙に近く、不思議な形かたちで遠くなっている。身体にはたぶん、道具として記述される次元でも『不透明さopacite』(マルセル)がともない、道具としての身体もまた、とらえがたく抽象的であることに発する『異質さetrangete』(ヴァレリー)を逃れていない。」(36−37頁)

どうして不透明や異質といったどちらかというとネガティブな言葉になってしまうのか。どんづまって残尿感ありまくり。理論が袋小路に入ってしまっている。
身体が道具であるならば、そう言い切ればいいのに。むしろ言い切った方が清々しいのに、所有しているはずの身体を手に余る難敵として扱っている印象だった。


今日、本を薦めてくれた友人に、
「踊っているときに、身体を“所有している”って感覚ってある?」
と訊かれたのがそもそもの始まりだ、とても興味深い質問だと思った。

答えは、「所有しているつもりはない」だ。
そもそも、所有は人間のすることであって、身体は何も所有していない。
身体は自然なのだ、空気や水や飛んでる虫や動物や木と同じ、自然の一部である、と最近思っている。
そして人間は身体の中にある。
だけど人間は身体について考える。身体は人間については何も言わない。

熊野氏も、所有は距離を取ることのできる対象に対して使う言葉であって、その言葉が身体に当てはまるだろうか?という疑問は持っていた。
その通りだよ、と思った、身体を所有しているという考え方自体が身体を超えて人間になった思考の考えることであって、身体に起こりうる現象をすべて理解し、所有することは人間には出来ない。
まぁ倫理というフィルターがかかっているから、と思っても、この人は倫理から抜け出したいのか、抜け出したくないのか。
私の立場から言えば、身体それ自体でやっていることにおいて、例えば踊りながら、なにかを所有するという考えは浮かばない。
ついでに、人間が踊るってのは行き詰まる。身体が踊るのだ、人間になる前に自然は踊っている。



ダンスは視覚芸術だ、と以前書いた。
それは、見る対象と自分との間に距離があるということだ。つまり私がダンスを外から見る、客としてダンスを見る場合は、ダンスは視覚芸術だ。
だって目を瞑ったら、ダンスは見られない。
しかし、踊ることにおいて、ダンスは視覚芸術とは言い切れない。
なぜなら、目を瞑っても踊ることは出来る。
これ今日発見したこと。

自分の身体において、自分の目で見ることの出来ない場所はとても多い。
特に背中や首、顔の動きなんかは自分の目では見ることが出来ない。
でも、自分の背中や首や顔まで、どういう風に動いているか、踊る人は把握している。つまり視覚によって自分の動きを把握しているわけではないのだ。
じゃあ動いているのをどう把握してるか、それは感覚としてとらえている。

例えば、グーとパーの手の動き。目の前でやってもグーとパーは作れる。
その手を背中にまわしても、手をグーとパーにしていることは分かる。
動くことは、距離を持った知覚がそれを生むのではなく、感覚と対応しているのだ。
感覚を言葉に置き換えるのは難しいけれど、むしろその感覚というものを言葉にする必要はないのだけれど、感覚って例えば…筋肉が動いていることを感じるとかね。たいした言葉にならない。
むしろかっこいい感じの言葉にするしかない。「魂が身体を動かすのよっ!」とか。


私がずっと習っていたバレエ教室や大学のダンス場には、必ず鏡があった。自分の動きを自分の目で見ながら動いていた。
しかししばらく鏡の無い場所でダンス作品の稽古する期間があった。そのときは演出家が私の動きがどういう風に見えているかを伝えてくれて、そしてどういう風に直すかの指示を与える。最初は非常に困った。何をどうしてそう言われて直すべきなのかわからない。
例えば、手をまっすぐのばしたからと言って手がまっすぐ伸びている画にならないものだ、少し力を抜いたり肩をおろしたりすることでより手がまっすぐ伸びている画を作ることが出来る。
そんな感じでその稽古の間は、感覚と印象(イメージ)の擦り合わせをしていたように思う。
これは非常に有益な経験だったと思う。さらには、演出家が動きや身体の構造ではなくとにかくそのときのイメージ(結果)についてのみ指摘するので、鍛えられた。
それをしていたら、鏡が必要なくなった。よく考えれば、鏡という一瞬しか自分を捉えられないものに縋る必要はもともと無かったことに気がついた。
背中で動いている手の動きも、背中の動きもなんとなくわかるようになる。べつに、感覚とイメージが完全に一致しているとは言い切れないけれど、自分の身体が見えないことが怖くなくなる。
(ただしこれを単に、客観的視点を持った、と言ってしまうのは性急だと思う。
また、踊るにあたって踊る本人が必ず明確な(クリアな)イメージを持たなければならないとは言い切れないのだけど。)


つまり、知覚で踊っているわけではないということだ。
知覚は対象との距離を持っている。
感覚は距離がない。むしろ身体において起こることだ。
踊ることは、運動は、感覚とともにある。



話はさかのぼるけれど、
そう考えると、身体を所有するとか道具とするということが、踊ることとどれだけかけ離れているか、と思い至った。

多分一年前の私なら、「身体は踊るための道具」と言っていたと思う。
それは多分、ちがう。
身体が踊るんだ。

1 件のコメント:

  1. ちばだいのタカネです。
    ブログときどき見させていただいてます。
    面白いおはなしですね!
    「魂が身体を動かす」っていうのが特に。
    刺激的です。
    読みながら、山田うんさんが
    「言葉は過去の経験の蓄積から紡ぎ出す。逆にダンスは未来からやってきて、ダンスしたあとに自分が何考えているか感じ取る。」
    っていうようなことを言ってたのを思い出しました。
    その話を聞いたときは、
    衝動的に動いてみて、その動きが視覚とか平衡感覚とか筋肉感覚とかを通して脳に伝わってきて、過去の記憶に結びつくっていうことなのかなぁ
    と理解してました。
    私個人では、そういうことは起こらないんですけど。
    そんなに踊り慣れているわけではないから、身体ボキャブラリーが少ないのかも。
    口から先に生まれたような人に限っては、喋ることが未来からくるものをキャッチする手段なのかもしれないし、
    落書きマニアみたいないっつも絵ばかり描いている人は、描くことがそれなんですよねきっと。

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