2012年7月14日土曜日

身体が持っているリズムとメロディー/スマートさ

身体の中にリズムとメロディーを見い出す
身体の中のリズムとメロディーを見つける
身体のリズムとメロディーを探す
身体が持っているリズムとメロディーを感じる

「身体が持っているリズムとメロディーを感じる」が今は一番しっくりくる。

リズム、戻ってくる感覚、何かがゼロになる感覚
出発点と着地点がぴったり同じとは限らない、時間は進んでしまっているから。
でも、ずれていても、ゼロになって、再び1になる。

メロディー、推移。運動している、それ。
音楽を聴いていて感じる、音の推移が“美しい”と思えること
それが誰にでもまことに美しいかどうかは考慮するまでもなく、
ただそれに感じ入り、身体がほどけて、澄んで、温かくなるもの。
身体にも、それはある。

ただし、身体において、どれがリズムでどれがメロディーであるかを決める必要はないし、あまり意味はない。
むしろ多層的に、幾層位にもそれらはあてはまる。


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どんな理由で身体が在ったって、動いていたって、
私にとって身体の面白さは消えることはない。
面白さとは、興味。美/醜以前、理想よりも前に。
(私は割と、人の動きを部位ごとに分割して見る傾向があると思う。)

作為的でない、純粋な動きはいつだって美しい。
職人の手さばき、荷物を運ぶ運送屋さん、料理人の姿、楽器の奏者、
道具とともに、それに見合うスマートな動きを手に入れた身体とその動きは美しい。
機械的ともいえる。

人の歩く姿。
身体の外部に道具がなくても、骨格や筋肉の成り立ちからおのずとその人にとって最もスマートで純粋な動きがそこにあるから、見ていて面白い。

人の身体の形も、時が経ち、老いてゆく。
重力に逆らわず、ありのままに変化していくのは自然であり、それも面白い。


自意識的、ないしは作為的な意味での(これ以外に今言葉が見つからない)無駄がないように、ありのままに。

その無駄って何か。
目に入れたコンタクトに違和感があって、手でそれに触れようとするとき、手は一番最短距離で目まで届く。

歩くことに無駄はない。
いつだって最短距離で、何も考えなくたって最も効率がいいように歩くことができる。
右足を出したあと、左足がそれを追いかけて右足を打ち出す、なんてのは、歩くことにとっては無駄なこと。
歩くことにとってダンスは無駄な動きなのです、
だけどそれがツーステップであるならば、ツーステップとしての無駄のない美しさを求めることになる。

“無駄である動き”にとっても、一番無駄なくスマートに動く方法がある。

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