2012年7月29日日曜日

試論 (芸術性について)

先だってベルリンで出会ったある一つの絵は、私にとってとても重要なことを思い出させてくれた。
美術館に行くのが、芸術作品を見るのがどうして好きなのかを改めて思い出させてくれた、私にとって大切な絵。
美術史や芸術批評について興味を持ち始めて久しいが、どれだけ勉強して作品を語る言葉を手に入れても、その絵を見たときに感じた言葉に出来ない感動はまさに、私が昔から確かに感じていた表現に対する興味の源泉だ。

その絵がどんな絵であるのかは、他人にとってさして重要ではない。私がその絵を"見る"ことが、私にとって重要だからだ。
その絵は、美術館に居る私を、ここではないどこかに連れていってくれる。その作品のなかにその力を、私は感じることが出来た。
ここではないどこか、それは私の記憶のなかにあるところだ。記憶によって作られる場所だ。
寝ているときに見る夢は、必ずしも今まで行ったことがある場所とは限らない。むしろ私はいつも、知らない場所に居ることの方が多い。だけど、行ったことのない、知らない場所の風景を見ることが出来る。(因みに、登場人物は知っている人が多い。もしかしたら、知らない人は覚えていないだけなのかもしれないけれど。)
「見る」とは何なのか。場所の風景を、私は見ているだけではなく、何らかの情報を身体で感じている。それは身体の体験、身体の感覚の記憶だと思うのだ。



私の思う芸術性は、意味を「理解するもの」ではなく、「身体で感じ取るもの」だ。
理解しようとするのではなく怖がらずに身体で感じ取るものを重んじるべきだと思う。言葉にならない感覚を無理やり言葉に置き換えることはない。言葉は、ときに感覚を一つの型に押し込めてしまう恐れがあるからだ。
同じ文字を使うのに言葉にはたくさんの用途があるし、本当に気をつけて使わなくてはならない…



感動というもののなかには確かに、「気づく」ことや「解る」ということがある。
自分にとって混沌とした意味不明であるものをそのまま愛せる人は少ない。それは、解ることが出来るものを知っているから、自分にとって「解ることの出来ないもの」をひとつの解釈として持っている。
「解ることの出来ないもの」を知らない人にとって、理解出来るものは好ましい。だけどこれは、誰にでも当てはまることであり、誰もが最初に経験することだ。気づき、閃き、その裂け目のような箇所から勢いよく溢れ出す想像力の広がりは、まず何にも変え難い芸術体験の一歩だと思う。
昔からその感覚が好きだった。



芸術は、突き詰めれば個人の嗜好にその良し悪しが判断される場合がある。
このときの、嗜好とは何か。それは「理解」云々を超えもっと深層にあるもの、それは記憶だ。嗜好が異なるのは、身体の記憶が人それぞれ違うからだ。文化が嗜好を決定するのなら、良し悪しの判断はもっと一律的になる。
記憶はその身体の体験を積み重ねて形成される。

芸術性は文化に起因せず、身体に起因する。
なぜならば、文化が興るより前に人は身体という個体で動き、他の個体である他人に働きかけるからだ。一つの身体が世界に働きかけることが、芸術の始まりだと思うからだ。そして、芸術や表現はいつでも、他人のなかにあるのではなく、世界にある。

芸術がときに前衛であることは、文化が芸術を作るのではなく、一つの身体が文化から逃れるから、はみ出すからだ。


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うーん

複雑なものを、複雑なままに書けるようになりたいわ。
簡単にはしたくないし、簡単にしてしまえる私というフィルターはものすごく貧しい。
上に書いた一文ごと、一節くらいはゆうに説明しなきゃいけないはずなのに。
要約ですらないな、ただの乱暴な文章だ。まだまだだなぁ
でも書かなきゃ始まらないから、許して。

出来るだけ他人の言葉を借用したくもないし、むしろ私というフィルターすら消し去りたい。
そして複雑なものを複雑なままに。

改行って恐ろしいくらい本当にたくさんのものが抜け落ちるのです。
行間に甘えるな。

言葉が足りないわ。

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