言葉は好きなのです。
喋るのも、書くのも割と。
下手くそだけど。
思い返すと、私の家族の間では、変な言葉がたくさんあった。
「ありるれろ」「どどぽん」「講釈様」「ぎゃおす」 「ほげ」「がちゃぽんぷ」
父親はよく自作の変な歌を唄っていた…昔は純粋に面白がっていたけど、今思うと疑問は多い。父は割と変な人だ。
そして人を言いくるめるのが上手い。
弟は良い感じに受け継いで(?)、割と人を言いくるめるのが上手い。
私は暴力的に言葉を扱う節があると反省している。つい感情で押し切ってしまうのは悪い癖。
まったく本は読まない子供だったけど漢字は好きだったし、たくさんのイメージや情報を含んでる文字に触れるのはわくわくした。
ほんの少し、コピーライターに憧れてたときもあったの正直。
漢字の書き取りとか大好きだったし、レタリング大好物(色紙はとりあえず私に寄越せ、と思っていた。なんというわがまま)。
裏紙に筆ペンで無駄に漢字をたくさん書くのとか好きだった。
これは父の真似。
言葉っていうか、文字が好き、なのか…
今日久しぶりに友人と色々話して、言葉って便利だと思ったり、分かったつもりになってしまうのは怖いなぁと思ったり。
言葉で言葉を考えるのはとても楽しくて難しい。
何故なら言葉は直ぐに私の手を離れて独り歩きしている。
そういう言葉の魔力に惑わされない様にしないと、と最近ちょっと踏みとどまってみる。
言葉に踊らされないように、言葉を使える人にならなきゃ、とやけに思う。
お洒落な言葉を捻り出したいんじゃなくて、その言葉が相応しいのか、実感を持って使えているのかをちゃんと考えなきゃ、と遅ればせながら最近やっと思い至った。
今日の反省。
2012年6月29日金曜日
2012年6月28日木曜日
ダンスをさがす
稽古場で、鏡の前にずっと立っている。
身体のどこから動き始めるか、を考えたとき、しばらくしてその疑問が無意味であることに気づく。
身体はずっと動いているし、動き始める前に止まっているということもない、むしろ、止まっている、という状態を維持しているのだし、突っ立っていたって、微妙に揺れている重心や息をしていること、何にも“止まっている”ものはない。
さて何をどう動かせばいいのか考えて、鏡に映る自分に話してみる。
どこからか声が聞こえる、そのとき喉が震えている。
ただ立っていて、腕を持ち上げようとする。
今腕は肩の関節から外れることなく、肩からぶら下がっている状態。
腕を持ち上げてみようか。
どうして腕を持ち上げるのか。
別に理由なんてないけれど。
顔が痒い、手はその痒い部分に触れようとして動く。
ずっと腕を下ろしていて血が下がってしまったから、手を上げる。
何かを掴もうとして腕を上げる…例えば蚊が飛んでいる。
身体はヒトが生きるために、ほんとうにいろいろな機能を背負っていて、
生活するために、コミュニケーションを取るために、身体は実によく働く。それらの動きを排除してダンスを考えることは出来ない。
ダンスは身体の動きであって、身体の動きは絶え間なくいつも続いていて、その中にダンスもある。
何がダンスで何がダンスじゃないのか、を分けるのは大変難しい。
だけど踊ることは、それら生活の"ため"の身体の動きから最も離れた所に在るんだろう、あってほしい。
簡単な言葉で言えば、最も意味や意義から離れていて、つまりそれを無意味と言ってもいいが、
それよりも間違いなく、そこに在るもの、それ以上でもそれ以下でもない。
身体はまさに身体として、その運動もまさに運動として純粋なもの、
つまり不可分なく自然として、身体とその身体の動きが、在るがままに。
その様子を言葉に置き換えたら「美しさ」?、というのは余りにも安易だけど、何か人を感動させるものになるんだろうかと思ったりする。
そういう風に身体を扱えたらいいなぁ、と思う。
例えどんな振付や決まりごとがあったとしても、それ以前に身体がどう在ってどう動くかを見て感じている。
私はそういう風にダンスを見ている気がするし、それだけで十分だと思う。
意味や機能の解釈に身体が囚われて抜け出せないのは身体の、人間としての甘えだと思う。
面倒なことを色々考えすぎる、
だけど考えれば考える程答えは単純。
人間としての価値に興味が薄れてゆく程、自分の身体としての価値をどれだけ見出せるか考えてみたりする。
なんか未熟で刺々しい言葉しか繋げないのだけど、稽古しながらぼんやりと考えていたことを書いてみた。
理想はどんどん高くなって、だけど何が正解なのかも分からないけど、
とりあえずまだまだだなぁ、と思うことは確か。
身体のどこから動き始めるか、を考えたとき、しばらくしてその疑問が無意味であることに気づく。
身体はずっと動いているし、動き始める前に止まっているということもない、むしろ、止まっている、という状態を維持しているのだし、突っ立っていたって、微妙に揺れている重心や息をしていること、何にも“止まっている”ものはない。
さて何をどう動かせばいいのか考えて、鏡に映る自分に話してみる。
どこからか声が聞こえる、そのとき喉が震えている。
ただ立っていて、腕を持ち上げようとする。
今腕は肩の関節から外れることなく、肩からぶら下がっている状態。
腕を持ち上げてみようか。
どうして腕を持ち上げるのか。
別に理由なんてないけれど。
顔が痒い、手はその痒い部分に触れようとして動く。
ずっと腕を下ろしていて血が下がってしまったから、手を上げる。
何かを掴もうとして腕を上げる…例えば蚊が飛んでいる。
身体はヒトが生きるために、ほんとうにいろいろな機能を背負っていて、
生活するために、コミュニケーションを取るために、身体は実によく働く。それらの動きを排除してダンスを考えることは出来ない。
ダンスは身体の動きであって、身体の動きは絶え間なくいつも続いていて、その中にダンスもある。
何がダンスで何がダンスじゃないのか、を分けるのは大変難しい。
だけど踊ることは、それら生活の"ため"の身体の動きから最も離れた所に在るんだろう、あってほしい。
簡単な言葉で言えば、最も意味や意義から離れていて、つまりそれを無意味と言ってもいいが、
それよりも間違いなく、そこに在るもの、それ以上でもそれ以下でもない。
身体はまさに身体として、その運動もまさに運動として純粋なもの、
つまり不可分なく自然として、身体とその身体の動きが、在るがままに。
その様子を言葉に置き換えたら「美しさ」?、というのは余りにも安易だけど、何か人を感動させるものになるんだろうかと思ったりする。
そういう風に身体を扱えたらいいなぁ、と思う。
例えどんな振付や決まりごとがあったとしても、それ以前に身体がどう在ってどう動くかを見て感じている。
私はそういう風にダンスを見ている気がするし、それだけで十分だと思う。
意味や機能の解釈に身体が囚われて抜け出せないのは身体の、人間としての甘えだと思う。
面倒なことを色々考えすぎる、
だけど考えれば考える程答えは単純。
人間としての価値に興味が薄れてゆく程、自分の身体としての価値をどれだけ見出せるか考えてみたりする。
なんか未熟で刺々しい言葉しか繋げないのだけど、稽古しながらぼんやりと考えていたことを書いてみた。
理想はどんどん高くなって、だけど何が正解なのかも分からないけど、
とりあえずまだまだだなぁ、と思うことは確か。
2012年6月23日土曜日
身体の音楽(リズム)
例えば、
歩くとき、右脚と左脚が交互に前へ出る。
右脚と左脚しかないんだから、二本の脚を交互に前進させる。
反復。それはリズムになるかしら。
歩くリズム、
躓けば、リズムが変わる。
運動は振り子と同じ様なもので、もしくはやじろべえみたいに、一つの中心(それが何処にあるかは人次第だけど)を軸に調整してるし、運動は放出のみをしているわけではない。
回収(調整)をしている、
踏み出した一歩の為に、後脚が地面を押して重心を移動させる。
じゃなきゃ前方に放り出した脚は、自分のところに戻ってくる。
放り投げたブーメランが戻ってくる様に、身体に繋がれた身体(中心を持つ身体/有限な身体)は投げ出した後必ず戻ってくる。
その中心が背中の真ん中に在ると云う人も、お臍の下辺りに在ると云う人も。
異なる2つの身体の何処に重心があるか探って、重心の重なる位置が見つかればリフトは楽(いや、当然下の持つ人大変だと思うけど!上は楽だ)
投げ出した腕が"放出"のイメージを見せるとしたら、投げ出しと戻しのリズムを変えている。
さらには、投げ出した腕とは反対側の脚がブレ無く踏みとどまる、
見せ方の技術。
ただ腕を放り出しても、放出のイメージにはならない。
運動は円環。
必ず戻る。
クラシックバレエが顕著。形でそれを実行する。
それがずれて行くコンテンポラリーダンスは、重心(中心)と運動の±で成立する。
そして重心は必ず点ではなく、線や面の場合もある気がする。
だけど運動は必ず戻る、だって身体は有限だから。
例え1と0を綺麗に繰り返さなくても、大きく捉えれば0に戻る。
戻る、そして繰り返す。
呼吸とか、も。
昔レベルの違うダンサーたちのユニゾンの振りを作る時に気がついたこと。
形を振りつけるんじゃ無くて、運動(リズム)を振りつければ良いんじゃないか?って。
昨日ユニゾン見てたら思い出した。
だけど一つの身体の中でもそういうことはあって、
運動はリズムを作る。
逆はまだ謎だ
歩くとき、右脚と左脚が交互に前へ出る。
右脚と左脚しかないんだから、二本の脚を交互に前進させる。
反復。それはリズムになるかしら。
歩くリズム、
躓けば、リズムが変わる。
運動は振り子と同じ様なもので、もしくはやじろべえみたいに、一つの中心(それが何処にあるかは人次第だけど)を軸に調整してるし、運動は放出のみをしているわけではない。
回収(調整)をしている、
踏み出した一歩の為に、後脚が地面を押して重心を移動させる。
じゃなきゃ前方に放り出した脚は、自分のところに戻ってくる。
放り投げたブーメランが戻ってくる様に、身体に繋がれた身体(中心を持つ身体/有限な身体)は投げ出した後必ず戻ってくる。
その中心が背中の真ん中に在ると云う人も、お臍の下辺りに在ると云う人も。
異なる2つの身体の何処に重心があるか探って、重心の重なる位置が見つかればリフトは楽(いや、当然下の持つ人大変だと思うけど!上は楽だ)
投げ出した腕が"放出"のイメージを見せるとしたら、投げ出しと戻しのリズムを変えている。
さらには、投げ出した腕とは反対側の脚がブレ無く踏みとどまる、
見せ方の技術。
ただ腕を放り出しても、放出のイメージにはならない。
運動は円環。
必ず戻る。
クラシックバレエが顕著。形でそれを実行する。
それがずれて行くコンテンポラリーダンスは、重心(中心)と運動の±で成立する。
そして重心は必ず点ではなく、線や面の場合もある気がする。
だけど運動は必ず戻る、だって身体は有限だから。
例え1と0を綺麗に繰り返さなくても、大きく捉えれば0に戻る。
戻る、そして繰り返す。
呼吸とか、も。
昔レベルの違うダンサーたちのユニゾンの振りを作る時に気がついたこと。
形を振りつけるんじゃ無くて、運動(リズム)を振りつければ良いんじゃないか?って。
昨日ユニゾン見てたら思い出した。
だけど一つの身体の中でもそういうことはあって、
運動はリズムを作る。
逆はまだ謎だ
2012年6月20日水曜日
そろそろ
固い床に寝ても、身体がまったく痛くならない方法を発見した!!
どうでもいいか。
だけど気の持ち様で変わるんだなぁと、ちょっとヨガ的な感じだ。
床と重力のことを考えるのだ。
最近踊ってないなぁ、ということも意味が分からなくなるくらい、
ダンスのことは考えてる。
自分のダンスに、素敵な言葉を飾り立てるのは意味が無いんだと思うけど、
(つまり意味を引っ張ってくんなってこと、自分で言葉を作り出せってこと。)
だけどやっぱり自分で考える自分のダンスは、今まで私が経験してきたもの抜きには作られない。
この身体で踊る、その身体の経験以外に言葉も何も出てこないってそろそろ諦めてみる。
自ずと、自分が今までどういう風に踊ってきたか、そこから何を捨てて何を得ようとするのか、考えなきゃならん。
新しいダンスは要らないけど、自分の中で新しいものがないとね。
かといって、
身体動かしてるときに考えることとか、考えすらしなくても作動する運動とか、いちいち説明してると間に合わないんだよな、だからみんな言葉に頼らなくたって踊ってるんだし、誰も説明なんてしようとしない。(評論家は効果ばかりを言葉に置き換える。)
だけど、身体から出てくる言葉に興味はある。
そしてどう考えが転んでも、やっぱりダンスは言葉を超えるってところに行き着く。
言葉より先に身体が在ったんだから。そういうことなんだろう。。
2012年6月1日金曜日
六月
長旅から帰ってきました。
意外と死にませんでした。普通に行って、普通に帰ってきました。
帰ってきて、いろんな人と話をして、少しずつこれから何が出来るのかが分かってきます。
行っていたときよりも大分思考がクリアになってきました。
一人で行っていたので当然、現地で自分の考えを人に猛烈に話すことはあまりしていなかった分、帰ってきて会う人に話をしていると、何を考えて何を話そうとするのか、その中で自分が何を考えて過ごしていたのかが分かってきた気がします。
思うよりたくさんのものを見て、たくさんのことを経験したんだと帰ってきて実感します。
でも3週間でこれだけのことがあれば忘れることも多くて、もはや自分の日記を読み返しながら「ああ、そんなこともあったな」なんて思い出す感じ。
日記書いといてよかった。
一言で感想を言えば、楽しかったー、とか、面白かったー、という話だけど、
そんな言葉では集約できないくらい、むしろ淡々と舞台を観て日々を過ごしました。
人とわいわい過ごして楽しい、とは訳が違うのだけど。喋ってないし。喋れないし。
最後に飛行機で話しかけてきたカナダ人の兄ちゃんにはもはや、「私リスニングできないから紙に書いて!」ってコミュニケーション取ってたし。
愛想と笑顔のコミュニケーションにも限界がある。
日本で考えているよりも遥かに、ベルリンもブリュッセルも芸術がとても成熟していて、
旅行に行った人のお決まりの展開だけど、自分がぐちぐち考えていたことがすごくどうでもよくなったことと、ぐちぐち言っている周りの状況すらどうでもよくなったことと、もっと単純にやりたいことをやればいいのだなーとすっきりしました。たぶん。
すくなくとも今まで私に足踏みさせた何かが、踏みとどまるに値しない程度のものだと、分かっちゃったー
卒業できなかった傷心旅行だ!とか言っていたけど、
むしろ私のこないだの作品は我ながらやっぱいい作品だったと、ただもう少し詰めるべきところが分からなかっただけ、知らなかっただけなのねと向こうでふと思っちゃったのよね。笑
だからまた作る。踊る。
やっぱり私にとって舞台は、いつ何時も大切なものだし大好きだし、まぁ生まれてこの方そんなことしか考えてこなかったんだし、もうそれしかやることないよね。しょうがない。
稼げないんだよねーとか、そういう、捻くれてる場合でもない。
腹据えて、もっと死ぬ気で勉強しようと思った。それでどうなるか知らないけど。
とりあえず英語とか。。
さて、どうしても読みたくて買ってきた英文の学術書を読むにする。
2012年5月27日日曜日
BRUSSEL 3
さて、
明日ブリュッセルを発ち、明後日東京に戻ります。
明日午前中の飛行機なので、なるべく寝ずに今晩は過ごすつもりですが、正直全く自信がありません。この際余裕に余裕重ねて無睡の朝一で空港行くつもりですが…
記憶が鮮明なうちに、日記でも書こうと思います。この一週間のこと書くので、多分長いです。
着いたときは天気最悪だったブリュッセルも、ここ2日くらいすっごく天気も良く、まだ5月なのにすぐ脱いじゃう外国人よろしく薄着でのりのりでした。
本当に、居られるならもっと居てダンスとか演劇とか観たいものはたくさんあるのです…
私の知らない所で面白いこといっぱいあると思うと、無性に悔しい。
この先の告知とか、パンフレットとか観ていると帰りたくなくなる。
かといって無限のインプットはそれはそれで怖くなるのですが… 有限だからこそ意地でも毎日チケット取りに行った感じだけどね。
観光で行くならば、観光地はいつだって私たちを待っていてくれるわけです。
観光地巡るだけなら全部で一週間で十分。
しかし舞台を観るとなると、一日に頑張っても2本しか観られないし、先に面白そうなのがやっていても私がそこで観られないんじゃしょうがないのです。
だから3週間くらい、長い時間が必要だったわけで、かつなるべく同じ都市に留まっていなければやりくりが分からないのです。
街にいる人がどういう生活をしているのか、雰囲気も少しは分かるし、だからこそどういう文化があるのかも多少は分かる気がします。
まぁでもやっぱり、言葉が分からないのは辛いな。
ブリュッセルはやっぱりちょっと怖い街です。別に怖い目にあったわけでもないけれど、バリバリ観光地と、少しでもそこを離れると地下鉄の駅には誰も居なかったり、不気味な路地が多かったり、ギャップが激しい。
人種も様々で、劇場が遠くて中心地から飛ばされるとちょっとしたスラムっぽい所も沢山ありました。多分場所によって住む人が分かれてる。
ついぞ最寄りの駅越えた飾り窓地帯には足を踏み入れず仕舞いでした。
ブリュッセルはそんな感じでしたが、
KUNSTENFESTIVALはかなりやばいです。いい意味で。
が、まぁ今日観たのは正直金返せってくらい酷かったな。笑
学芸会かオイってくらい。
しかも宣告してた時間より長いし、みんなぐったりだったわ。
しかも、このしょぼいダンサーなんなの?!引っ込めー、と思ってたら突如日本語しゃべりだしてさらにがっかり!
バレエカンパニーらしいんだが、誰一人としていいダンサーが居なかったという凄まじさ…
"振付をこなす"ダンサーは大嫌いなの、最近。観てても何も感じない!
酷いのはまぁ置いといて、
他観た4本はかなり興味深いものばかりでした。
Marcelo EvelinとBrice Lerouxのダンス作品は、もはやかつて私が観てきた振付のある"ダンス"というのを越えて、なんというか、"システムに振り付ける"という感じの。
例えば日本人で言えば勅使川原さんの作品を観たときにも感じる、なんて言えばいいんだろー、
振付の一つ一つを身体言語という扱いにするのではなく、動く理由というか、身体の運動そのものに命令に近い形で課せられる振付というもの、拘束する、そう、ルールに近い様なもの。そのルールが振付。
なんのこっちゃ、て感じだけど、動きとしては、Marcelo Evelinのは走ってるだけ、Brice Lerouxのは歩いてるだけなのです。
まぁ言葉にすれば簡単なんですが、どちらもそれを作品にするための方法(演出)がとんでもない。
Marcelo Evelinの作品は、男性7人と女性1人の出演者が全員全裸。
身体の一部(背中や太腿、腕など)にノコギリをガムテで巻いて、頭にはカーニバルちっくな派手な被り物、脚はスニーカーという格好。
それで一時間近く舞台の外周を延々と反時計回りにランニングし続ける。最終的には個々人の揺れてるモノとかどうでもよくなるんだよね。笑
BGMはシューベルトの弦楽五重奏。
苦しそう。でもなんか走ってる。たまにダッシュしたり、動物みたいな動きしたり、手を動かしたりする。
それらを飽きるというより、ぼーっと観てしまう。観ている方に何かを刷り込ませる。猛烈なメタファーであるのはわかるんだけど、何のメタファーなのかは分からないけど、なんか全裸で走ってる人がいるという光景。
最初にこれ観たものだから、空いた口が塞がらなかったわ。
途中で帰る客も居たね。
次に観たBrice Lerouxはさらにシステマチック。
Seth Horvitzという人が製作した全自動グランドピアノが舞台上手前にあって、演奏(当然無人ね)が始まるのですよ。ピアノの上には直径1m位の青白く光る玉が。
そうすると下手奥に、腕と胸から上出した、白い板で出来た正六角錐のドレスみたいなの着た人がゆっくり歩いてるんです。
これがねー憎いもので、床にちゃんと透明のプラスチック板敷き詰めてあって、綺麗に反射するのですよ。まさに水面をアメンボが音もなく移動する感じ。
六角錐の人は音に合わせて、んだか合わせてないんだか分からない感じでゆっくり歩いてて、しばらくすると六角錐の人もう一人出てくるの。
二人でゆらゆらと水面を漂ってると、また一人六角錐の人が出てくる。しばらくしてもう一人、また一人と六角錐の人は増えて、最終的に五人の六角錐の人が付かず離れずお互いに距離感を保ちながら舞台上を滑っている。どうやら小さいタイミングの決まりと歩くルールがあるらしい。
その間にピアノはゆーっくりと、気づかないうちに上手前から下手奥に移動している。終始光る玉のみの照明なので暗い。
最後にはなんか、実際の六角錐と反射した六角錐が合わさって細長い独楽みたいなのが六つ、不思議な空間の中でくるくる回ってる様に観えて大変不思議な感じでしたわ。
長くなってきたけど、あと二つ書くぜ。二時半だ。
三つ目に観たのはKonel Mundruczoの演劇。もとはこの人映像作家らしい。
これは!すごかった。
ノーベル賞作家のJ.M.Coetzeeの"Disgrace"という小説の舞台化。
セットは完璧に家を模した感じ、小道具充実し過ぎ。舞台前方には土の庭が。
あったこと全部説明したい位だけど長いから、特にすごかった所、
冒頭が20分くらい、まじでレイプシーンなんだよね。集団レイプ。突然家に押し居る男たちから始まり、女優の演技というか行われていることがあまりにもリアルで、絶叫から、殴る蹴る暴行も、死んだ犬を入れてた檻に女入れて後ろからヤって、犬の血を浴びせるとか、目を開けてるのが辛い感じ。でいきなり帰る客とか。
いつまでつづくのもうやめてあげて…というとこで急に男たちはサイレンで居なくなるんだけど、部屋に取り残された女のぐったり感、虚脱感凄まじく…
と、いきなり明るい音楽が流れて、レイプしてた男たちもその女も他の出演者もみんな歌い出すのー泣
しかもおもちゃの鉄琴とかトライアングルとかシンセ使って明るく演奏してるし。
やられた…と思った、何をやられたんだかわからんが、とにかくなんかすごいモノを観てしまった感じ。ぽかーんとする。
まぁその後は言葉が分からんかったり(多分ハンガリー語の上演に、フランス語とオランダ語の字幕)したけれど、
超名演技するやる気ない犬が出てきたり、セックスシーンがあったり、舞台のセット全部運び出したと思ったら下が全面土で、そこにバラを植えてったり、土からスモーク出てきたり、犬切り刻んだり、老夫婦のベットシーンがあったり、人間がみんな犬になって吠えまくってたり、いろいろカオスでした。
俳優はみんな演出家の映像に出てる?らしく、たいてい割とマイク使ってたけど、その分セットの緻密さと演技の緻密さが不可分なく適応してました。
舞台の嘘に映画の本当をぶち込んだ感じ。
しかもこの演出家、まだ30代だった気がする、次の作品も観てみたい!、が日本にくる可能性は限りなく低そう…
映像作品探してみようかな。
さて、あと、四つ目に観たのは、
Young Jean Leeという人のパフォーマンス作品。
これは、パンフレットにすでに太った女の人たちの全裸写真(モザイク有)が載ってたので、心して全裸であることに立ち向かえた。
まーやばいね、肉。
超巨乳、というか多分100kgオーバーなんじゃね?て人のバスケットボールのような乳とか。太ってるのに貧乳のボーイッシュなおばさんとか。
みんなぶるっぶるしてる。
タイトルが"UNTITLED FEMINIST SHOW"という、まぁそういう内容ですねって感じ。だけどかなり笑える。しゃべりこそしないんだけど、表情豊かだし、下ネタばりばりで下らないし、黒人が下手くそな歌唄ってるし(ずるい)、なんか開け放っちゃってる感じが非常に清々しい。
楽しそうだし。
ここで始めて、おお、これダンスじゃない、という振付らしきモノを見たけど、全裸だし、完全にギャグになってたのはすごいね。
カーテンコールにはみんなちゃんと服着て出て来たんだけど、それが案外街で見かける普通の女性のスタイルなのですよ、
んじゃここの人たちどんだけ太ってるんだ?と言いたくなるわ。
帰って自分の身体鏡で見たら貧相なこと!笑
さらにこっちで痩せた気がするし…(食べるもの見つけられなくて)
まぁ、そういうかんじ。
なんか全然書き切れてないけど。
そしてあれだよね、面白いのは、結構エログロ系のはお客さんが、舞台の全面横切ってでも途中で帰るんだよね。笑
ブリュッセルのこの企画がいろんな国や地域から色んな作品呼び集めてるのに、当のブリュッセルの人たちが嫌悪感を示すというなんとも攻めの姿勢のフェスティバルでしたわ。笑える。
当然、楽しんでる人の方が多いだろうけどね。
久しぶりに、自分がどっぷり舞台観てはまっている感覚が楽しかった。
言葉で書いたのはほんの一部だけだけど、むしろそれらの感覚を的確に表す言葉が私にはないんだけど、
一つずつの作品が予想不可能で真新しい経験で、
そうだよ、この感覚が面白いんだ、とあらためて思った。
また観に来たいと思うフェスだったなー。
さて三時過ぎたか。
明日ブリュッセルを発ち、明後日東京に戻ります。
明日午前中の飛行機なので、なるべく寝ずに今晩は過ごすつもりですが、正直全く自信がありません。この際余裕に余裕重ねて無睡の朝一で空港行くつもりですが…
記憶が鮮明なうちに、日記でも書こうと思います。この一週間のこと書くので、多分長いです。
着いたときは天気最悪だったブリュッセルも、ここ2日くらいすっごく天気も良く、まだ5月なのにすぐ脱いじゃう外国人よろしく薄着でのりのりでした。
本当に、居られるならもっと居てダンスとか演劇とか観たいものはたくさんあるのです…
私の知らない所で面白いこといっぱいあると思うと、無性に悔しい。
この先の告知とか、パンフレットとか観ていると帰りたくなくなる。
かといって無限のインプットはそれはそれで怖くなるのですが… 有限だからこそ意地でも毎日チケット取りに行った感じだけどね。
観光で行くならば、観光地はいつだって私たちを待っていてくれるわけです。
観光地巡るだけなら全部で一週間で十分。
しかし舞台を観るとなると、一日に頑張っても2本しか観られないし、先に面白そうなのがやっていても私がそこで観られないんじゃしょうがないのです。
だから3週間くらい、長い時間が必要だったわけで、かつなるべく同じ都市に留まっていなければやりくりが分からないのです。
街にいる人がどういう生活をしているのか、雰囲気も少しは分かるし、だからこそどういう文化があるのかも多少は分かる気がします。
まぁでもやっぱり、言葉が分からないのは辛いな。
ブリュッセルはやっぱりちょっと怖い街です。別に怖い目にあったわけでもないけれど、バリバリ観光地と、少しでもそこを離れると地下鉄の駅には誰も居なかったり、不気味な路地が多かったり、ギャップが激しい。
人種も様々で、劇場が遠くて中心地から飛ばされるとちょっとしたスラムっぽい所も沢山ありました。多分場所によって住む人が分かれてる。
ついぞ最寄りの駅越えた飾り窓地帯には足を踏み入れず仕舞いでした。
ブリュッセルはそんな感じでしたが、
KUNSTENFESTIVALはかなりやばいです。いい意味で。
が、まぁ今日観たのは正直金返せってくらい酷かったな。笑
学芸会かオイってくらい。
しかも宣告してた時間より長いし、みんなぐったりだったわ。
しかも、このしょぼいダンサーなんなの?!引っ込めー、と思ってたら突如日本語しゃべりだしてさらにがっかり!
バレエカンパニーらしいんだが、誰一人としていいダンサーが居なかったという凄まじさ…
"振付をこなす"ダンサーは大嫌いなの、最近。観てても何も感じない!
酷いのはまぁ置いといて、
他観た4本はかなり興味深いものばかりでした。
Marcelo EvelinとBrice Lerouxのダンス作品は、もはやかつて私が観てきた振付のある"ダンス"というのを越えて、なんというか、"システムに振り付ける"という感じの。
例えば日本人で言えば勅使川原さんの作品を観たときにも感じる、なんて言えばいいんだろー、
振付の一つ一つを身体言語という扱いにするのではなく、動く理由というか、身体の運動そのものに命令に近い形で課せられる振付というもの、拘束する、そう、ルールに近い様なもの。そのルールが振付。
なんのこっちゃ、て感じだけど、動きとしては、Marcelo Evelinのは走ってるだけ、Brice Lerouxのは歩いてるだけなのです。
まぁ言葉にすれば簡単なんですが、どちらもそれを作品にするための方法(演出)がとんでもない。
Marcelo Evelinの作品は、男性7人と女性1人の出演者が全員全裸。
身体の一部(背中や太腿、腕など)にノコギリをガムテで巻いて、頭にはカーニバルちっくな派手な被り物、脚はスニーカーという格好。
それで一時間近く舞台の外周を延々と反時計回りにランニングし続ける。最終的には個々人の揺れてるモノとかどうでもよくなるんだよね。笑
BGMはシューベルトの弦楽五重奏。
苦しそう。でもなんか走ってる。たまにダッシュしたり、動物みたいな動きしたり、手を動かしたりする。
それらを飽きるというより、ぼーっと観てしまう。観ている方に何かを刷り込ませる。猛烈なメタファーであるのはわかるんだけど、何のメタファーなのかは分からないけど、なんか全裸で走ってる人がいるという光景。
最初にこれ観たものだから、空いた口が塞がらなかったわ。
途中で帰る客も居たね。
次に観たBrice Lerouxはさらにシステマチック。
Seth Horvitzという人が製作した全自動グランドピアノが舞台上手前にあって、演奏(当然無人ね)が始まるのですよ。ピアノの上には直径1m位の青白く光る玉が。
そうすると下手奥に、腕と胸から上出した、白い板で出来た正六角錐のドレスみたいなの着た人がゆっくり歩いてるんです。
これがねー憎いもので、床にちゃんと透明のプラスチック板敷き詰めてあって、綺麗に反射するのですよ。まさに水面をアメンボが音もなく移動する感じ。
六角錐の人は音に合わせて、んだか合わせてないんだか分からない感じでゆっくり歩いてて、しばらくすると六角錐の人もう一人出てくるの。
二人でゆらゆらと水面を漂ってると、また一人六角錐の人が出てくる。しばらくしてもう一人、また一人と六角錐の人は増えて、最終的に五人の六角錐の人が付かず離れずお互いに距離感を保ちながら舞台上を滑っている。どうやら小さいタイミングの決まりと歩くルールがあるらしい。
その間にピアノはゆーっくりと、気づかないうちに上手前から下手奥に移動している。終始光る玉のみの照明なので暗い。
最後にはなんか、実際の六角錐と反射した六角錐が合わさって細長い独楽みたいなのが六つ、不思議な空間の中でくるくる回ってる様に観えて大変不思議な感じでしたわ。
長くなってきたけど、あと二つ書くぜ。二時半だ。
三つ目に観たのはKonel Mundruczoの演劇。もとはこの人映像作家らしい。
これは!すごかった。
ノーベル賞作家のJ.M.Coetzeeの"Disgrace"という小説の舞台化。
セットは完璧に家を模した感じ、小道具充実し過ぎ。舞台前方には土の庭が。
あったこと全部説明したい位だけど長いから、特にすごかった所、
冒頭が20分くらい、まじでレイプシーンなんだよね。集団レイプ。突然家に押し居る男たちから始まり、女優の演技というか行われていることがあまりにもリアルで、絶叫から、殴る蹴る暴行も、死んだ犬を入れてた檻に女入れて後ろからヤって、犬の血を浴びせるとか、目を開けてるのが辛い感じ。でいきなり帰る客とか。
いつまでつづくのもうやめてあげて…というとこで急に男たちはサイレンで居なくなるんだけど、部屋に取り残された女のぐったり感、虚脱感凄まじく…
と、いきなり明るい音楽が流れて、レイプしてた男たちもその女も他の出演者もみんな歌い出すのー泣
しかもおもちゃの鉄琴とかトライアングルとかシンセ使って明るく演奏してるし。
やられた…と思った、何をやられたんだかわからんが、とにかくなんかすごいモノを観てしまった感じ。ぽかーんとする。
まぁその後は言葉が分からんかったり(多分ハンガリー語の上演に、フランス語とオランダ語の字幕)したけれど、
超名演技するやる気ない犬が出てきたり、セックスシーンがあったり、舞台のセット全部運び出したと思ったら下が全面土で、そこにバラを植えてったり、土からスモーク出てきたり、犬切り刻んだり、老夫婦のベットシーンがあったり、人間がみんな犬になって吠えまくってたり、いろいろカオスでした。
俳優はみんな演出家の映像に出てる?らしく、たいてい割とマイク使ってたけど、その分セットの緻密さと演技の緻密さが不可分なく適応してました。
舞台の嘘に映画の本当をぶち込んだ感じ。
しかもこの演出家、まだ30代だった気がする、次の作品も観てみたい!、が日本にくる可能性は限りなく低そう…
映像作品探してみようかな。
さて、あと、四つ目に観たのは、
Young Jean Leeという人のパフォーマンス作品。
これは、パンフレットにすでに太った女の人たちの全裸写真(モザイク有)が載ってたので、心して全裸であることに立ち向かえた。
まーやばいね、肉。
超巨乳、というか多分100kgオーバーなんじゃね?て人のバスケットボールのような乳とか。太ってるのに貧乳のボーイッシュなおばさんとか。
みんなぶるっぶるしてる。
タイトルが"UNTITLED FEMINIST SHOW"という、まぁそういう内容ですねって感じ。だけどかなり笑える。しゃべりこそしないんだけど、表情豊かだし、下ネタばりばりで下らないし、黒人が下手くそな歌唄ってるし(ずるい)、なんか開け放っちゃってる感じが非常に清々しい。
楽しそうだし。
ここで始めて、おお、これダンスじゃない、という振付らしきモノを見たけど、全裸だし、完全にギャグになってたのはすごいね。
カーテンコールにはみんなちゃんと服着て出て来たんだけど、それが案外街で見かける普通の女性のスタイルなのですよ、
んじゃここの人たちどんだけ太ってるんだ?と言いたくなるわ。
帰って自分の身体鏡で見たら貧相なこと!笑
さらにこっちで痩せた気がするし…(食べるもの見つけられなくて)
まぁ、そういうかんじ。
なんか全然書き切れてないけど。
そしてあれだよね、面白いのは、結構エログロ系のはお客さんが、舞台の全面横切ってでも途中で帰るんだよね。笑
ブリュッセルのこの企画がいろんな国や地域から色んな作品呼び集めてるのに、当のブリュッセルの人たちが嫌悪感を示すというなんとも攻めの姿勢のフェスティバルでしたわ。笑える。
当然、楽しんでる人の方が多いだろうけどね。
久しぶりに、自分がどっぷり舞台観てはまっている感覚が楽しかった。
言葉で書いたのはほんの一部だけだけど、むしろそれらの感覚を的確に表す言葉が私にはないんだけど、
一つずつの作品が予想不可能で真新しい経験で、
そうだよ、この感覚が面白いんだ、とあらためて思った。
また観に来たいと思うフェスだったなー。
さて三時過ぎたか。
2012年5月24日木曜日
BRUSSEL 2
今日は観劇お休みです。
チケット取れなかったので。
朝、ホテルから歩いてたら大きな教会がお昼の鐘を鳴らしていたので、つられて入ってみた。
キリストの磔刑の木彫が気になった。
手二箇所と重ねた脚一箇所で人って磔になるのか?とか改めて考えた。
それにしても、キリスト教ってやっぱりすごい。こっちの教会は本当に身がすくむほど綺麗で大きい。
しばらく木彫を見ていたら、1€のろうそく点けて熱心に祈っているおじいさんもいれば、フラッシュ焚いて写真撮る観光客も。
世界でどれだけの人がキリストを信じているのか、想像してみる。
宗教って不思議だ。
さっき、観劇しない代わりにムール貝を食べてみた。
多分、この旅行中最も高価な食事でした。舞台より高い。
貝は美味しかった。
…ムール貝っていつも殻の大きさの割に身が小さいから、本場で食べたらあの殻の中一杯に身が詰まっているものなのかしら?という予想を裏切って、やっぱり身は小さかった。
有無を言わさずついてきたフライドポテトは完食出来ず。
ビールと食後の珈琲入れて22€。
クンステンの演目は学生でだいたい12€です。
マグリットの美術館は2€。
そう、昼にマグリットの美術館に行ったんです。しかしなんか、あんまり良いと思えませんでした。
日本でTASCHENのマグリット本買うほど好きだったのに、結局、絵に描かれている内容が好きだったんだと分かりました。
実物見てもあんまり何も感じなかった。
というか、
展示の仕方が非常に気に食わなかった。
照明が明る過ぎと角度悪過ぎて、絵の入った額のガラスや油絵の具に反射するのでいちいちイライラした。正面から見られない。
背の高い人が設置したのかしら。
以前は、マグリットの、人の身体や部分を描いた絵が好きだった。
だけど実物を観て、他の作品も観て、一番印象的だったのは建物が山の様に積み上がっている絵。
ぼーっと観ていたら、建物の外壁の色と空の色に吸い込まれそうな感じがした。
軽いんだよね。
いい意味でも悪い意味でもどちらにしろ、重力感がないというか。
現実味がない、とも思った、でもマグリットの絵を見ていて始めてそんなこと思った。始めから現実味なんて無いのに。
神経質な嘘は完璧であるほどファンタジー、迷いのなさ=パワーなのかな。
画面から発する力ってより、画面の向こう側へ引きずりこむ力が強い。
ベルリンで観た、Anselm Kieferの絵がこの旅の中で見つけた最も好きな絵。
黒を基調とした、とても大きな絵。多分6×5mくらいの絵。
平面に色々貼り付けてあるし一応ミクストメディアだと思う。
はじめに近くで見たときには、ただ荒々しい油絵の具と砂の混じった筆跡に木炭のような木や箱みたいなものが貼ってあって、悪い言葉で言えば意味不明で汚なくも見えたその絵が、
数メートル離れて見ると海辺の絵だと気づいた。
恐らく日没の頃で、夕陽が波打ち際に反射して、遠くの方には船が見える。
実際デコボコしている黒い部分より、微かなオレンジの部分が光って見えてくる。
波の音や、夕凪の音も聞こえて来そうなくらいだったし、夕陽が沈むその一瞬が作者にとってどれだけ強烈な印象を与えたのかが伝わってくる気がした。
一応写真を撮ったけど(こっちはOK)、
時間が経つに連れ、きっとこの写真見過ぎて印象が歪曲することは間違いない。残念ながら。
あの日実際観たことや感じたことをどれくらい零さずに居られるのか。
写真撮らなきゃいいのか、とも思ったけど…
あと3本舞台観たら帰る。
チケット取れなかったので。
朝、ホテルから歩いてたら大きな教会がお昼の鐘を鳴らしていたので、つられて入ってみた。
キリストの磔刑の木彫が気になった。
手二箇所と重ねた脚一箇所で人って磔になるのか?とか改めて考えた。
それにしても、キリスト教ってやっぱりすごい。こっちの教会は本当に身がすくむほど綺麗で大きい。
しばらく木彫を見ていたら、1€のろうそく点けて熱心に祈っているおじいさんもいれば、フラッシュ焚いて写真撮る観光客も。
世界でどれだけの人がキリストを信じているのか、想像してみる。
宗教って不思議だ。
さっき、観劇しない代わりにムール貝を食べてみた。
多分、この旅行中最も高価な食事でした。舞台より高い。
貝は美味しかった。
…ムール貝っていつも殻の大きさの割に身が小さいから、本場で食べたらあの殻の中一杯に身が詰まっているものなのかしら?という予想を裏切って、やっぱり身は小さかった。
有無を言わさずついてきたフライドポテトは完食出来ず。
ビールと食後の珈琲入れて22€。
クンステンの演目は学生でだいたい12€です。
マグリットの美術館は2€。
そう、昼にマグリットの美術館に行ったんです。しかしなんか、あんまり良いと思えませんでした。
日本でTASCHENのマグリット本買うほど好きだったのに、結局、絵に描かれている内容が好きだったんだと分かりました。
実物見てもあんまり何も感じなかった。
というか、
展示の仕方が非常に気に食わなかった。
照明が明る過ぎと角度悪過ぎて、絵の入った額のガラスや油絵の具に反射するのでいちいちイライラした。正面から見られない。
背の高い人が設置したのかしら。
以前は、マグリットの、人の身体や部分を描いた絵が好きだった。
だけど実物を観て、他の作品も観て、一番印象的だったのは建物が山の様に積み上がっている絵。
ぼーっと観ていたら、建物の外壁の色と空の色に吸い込まれそうな感じがした。
軽いんだよね。
いい意味でも悪い意味でもどちらにしろ、重力感がないというか。
現実味がない、とも思った、でもマグリットの絵を見ていて始めてそんなこと思った。始めから現実味なんて無いのに。
神経質な嘘は完璧であるほどファンタジー、迷いのなさ=パワーなのかな。
画面から発する力ってより、画面の向こう側へ引きずりこむ力が強い。
ベルリンで観た、Anselm Kieferの絵がこの旅の中で見つけた最も好きな絵。
黒を基調とした、とても大きな絵。多分6×5mくらいの絵。
平面に色々貼り付けてあるし一応ミクストメディアだと思う。
はじめに近くで見たときには、ただ荒々しい油絵の具と砂の混じった筆跡に木炭のような木や箱みたいなものが貼ってあって、悪い言葉で言えば意味不明で汚なくも見えたその絵が、
数メートル離れて見ると海辺の絵だと気づいた。
恐らく日没の頃で、夕陽が波打ち際に反射して、遠くの方には船が見える。
実際デコボコしている黒い部分より、微かなオレンジの部分が光って見えてくる。
波の音や、夕凪の音も聞こえて来そうなくらいだったし、夕陽が沈むその一瞬が作者にとってどれだけ強烈な印象を与えたのかが伝わってくる気がした。
一応写真を撮ったけど(こっちはOK)、
時間が経つに連れ、きっとこの写真見過ぎて印象が歪曲することは間違いない。残念ながら。
あの日実際観たことや感じたことをどれくらい零さずに居られるのか。
写真撮らなきゃいいのか、とも思ったけど…
あと3本舞台観たら帰る。
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